第29便 岩手県沿岸地域への現地視察
復興概要
日時:平成23年7月3日(日)・4日(月)
行き先:岩手県北上市、釜石市、大槌町、山田町、大船渡市、陸前高田市
参加者:大西克幸・高井正俊・小木曽駿
目的:震災後約100日が経過した被災地の現地視察
震災から3カ月が経過した被災地
3月11日からほぼ100日が経過した7月3~4日。「震災支援第29便」として私たちは、東日本大震災を原因とする津波によって甚大な被害を受けた岩手県の沿岸地域の視察へと赴かせていただくことになりました。
周知の通り、今回の震災においては揺れの激しさもさることながら、想定外であった巨大津波による被害が大きく、青森県から千葉県にいたるまで非常に幅広い範囲で被害を受けました。そのため、とても全ての被災地を周りきることはできません。それでも前日のうちに新幹線で現地に入り、翌一日をかけて岩手県内を出来る限り縦横無尽に周り、なるべく多くの今の被災地の現状を見て周らせていただくことになりました。
①東京から岩手県北上市へ
3日の夜に新幹線で岩手県の北上駅に到着した私たちは、これまで一連の復興支援活動における現地でのパイプ役としてお世話になっている北上JCの伊藤隆一さんとともに会食をしました。伊藤さんの行きつけのお店へとご案内いただき、おいしい北上の地酒や、地元のお魚をいただくことができました。ごちそうさまでした。
伊藤さんとのお話では、北上は岩手県の中でも地盤が固く、今回の震災における建物の被害はほとんどなかったこと。しかし、沿岸部に住むJCメンバーの親戚が被害を受けていること、またメンバーのみなさんも今回の震災によって、様々な形でご自身の仕事に大きな影響を受けていることを伺うことができました。またそれらのお話の中で、明日私たちを被災地へと案内してくださる菊池さんについてのお話も伺うことができました。
②北上を出発
伊藤さんが手配してくださった北上のビジネスホテルに一泊した私たちは、明朝早くに北上を出発しました。そして今日一日、被災地を案内してくださるのが、昨日の伊藤さんとの会食のなかでも話題に登った北上JC菊池隼さんである。
菊池さんは震災直後より、北上からおよそ60キロ離れた釜石での活動を中心に支援を続けています。震災直後から自然と集まったボランティアメンバーの仲間とともに、60キロの道のりを毎日車で通っています。「できる人がやれることをやる」というスタンスで、いてもたってもいられなくなり釜石に通っていたところ仲間が広がっていき、現在はボランティアと現場のコーディネーターとして、「被災地の願いとボランティアの想いをつないでいくこと」を目指し、全国から集まったボランティアとともに釜石の瓦礫撤去ボランティアを行っているそうです。
一週間の7日のうち6日は釜石へと通っており、残りの1日でご自身の仕事をこなしているということですが、それでも「周りのみなさんのサポートのおかげで、なんとか1日仕事をさせてもらっている。とてもありがたい」と仰っていたのが印象的でした。
釜石までの道のりでは、被災地に向かう車と、朝の通勤ラッシュとが相まって、何箇所かで渋滞が発生していました。およそ1時間をかけて釜石市に到着。地震の影響をほとんど感じさせない街並みが一転したのが、釜石駅を過ぎたあたりからです。ある地点を過ぎるといきなり、1階部分がめちゃくちゃに破壊された建物が立ち並ぶようになっていきます。
③釜石市
釜石ではボランティアセンターが震災直後から立ち上がり、全国からのボランティアを受け入れていました。常連となっている菊池さんはボランティアセンターからの人望も篤く、ボランティアからセンターのスタッフとまちがえられ声をかけられることもしばしばだとか。
釜石市は岩手県に位置し、福島県や宮城県と比べれば、関東から遠い被災地の一つです。また、海岸沿いに広がる中心街は甚大な被害を受けましたが、海岸と反対側の丘陵地帯に建てられていた建造物は被害を免れ、建物は震災以前と変わらず残っています。そのため、町全体としてはそれほど被害が大きくないように見えることも相まり、被害の大きさと比較してなかなかボランティアが集まりにくいのが現状だといいます。
そしてGW後、やはりボランティアに訪れる人々の数は明らかに減少しているそうです。土・日曜日の毎週末には毎週200~300人ものボランティアがこれまでは集まっていましたが、最近では50~60人にまで減少しているといいます。さらに平日ともなると、さらにボランティアとして参加する人々は少なくなっているとのことです。
ところで、瓦礫撤去を行うボランティアと地元の民間の清掃業者の間で争いがおこることがあるというお話も耳にすることができました。“自分たちの仕事を取られた”という感覚を、ボランティアに対して持つ地元の民間業者もいるとのことです。
しかし、民間業者は土日が休日となっていることが多く、仕事の休日を利用して、他地域から岩手に戻り家の片づけを行っている人々にとっては、自宅を片づけられるのは仕事が休みとなる土日しかないといいます。そうした民間業者では行うことが難しい役割を菊地さんのような瓦礫撤去ボランティアが担っているのですが、震災によって仕事が激減している地元の業者にとっても仕事が少なくなってしまうのは死活問題であり、現場で発生する難しい問題を垣間見ることができました。
今回の東日本大震災と16年前に発生した阪神大震災を比較するといくつもの違いが挙げられます。阪神大震災は直下型地震であったこともあり、その被害の多くが建物の損壊でした。高速道路が横倒しになっていた映像は直下型地震の恐ろしさを思い起こさせます。そのため損壊した建物と同じ場所に、耐震強化した建物を建てることで復興への道のりを進んでいくことができました。
しかし東日本大震災の被害の多くは津波の被害であり、考えたくないことですが、再度地震が起こり津波に襲われる可能性を考慮するならば、津波被害を被ったその場所に、震災前と同じように街を再建していくことは難しいと言わざるをえません。そのため町の復興のためには、津波被害地域で生活していた人々が、新たに生活を営んでいる場をどのように創出していくのか、そうした生活環境が変化する中でどのように町で生活を営んでいくのかという未来の街づくりのグランドデザインを、復興への瓦礫撤去作業と並行して作っていく必要があると菊池さんは仰っていました。
④大槌町、山田町
その後、車は釜石を出発し釜石市の北に位置する大槌町へ。大槌町も町舎が流されてしまうなど甚大な被害を受けたのですが、その被害の甚大さを大きくマスコミが報道したため多くのボランティアが集まり、結果的に瓦礫の片づけは釜石よりも進みつつあるとのことでした。
さらに車は、舗装された道路が流されたために、車一台がやっと通れるほどの仮道路を抜け、山と山の間に存在する山田町の小さな集落へ移動します。
小さい集落には震災直後も物資が届きにくかったことにとどまらず、現在でもまったく復旧への作業が手をつけられていないなど、「意識的に見落とされている」側面があると言わざるをえないということです。山田町のこの地域はまさにその「意識的に見落とされている地域」の一つであり、瓦礫撤去などの復旧に向けた作業はほとんど行われておらず、人命救助が行われた後はそのまま取り残されているようです。
密集した地域が大きな被害を受けた阪神大震災とは違い、津波によって広範囲に被害を受けているのも今回の東日本大震災の特徴の一つです。また、津波の被害はまさに「天国と地獄」のような側面があり、海に面している方向や川の有無などにより、壊滅的な被害を受けた地域とほぼ全く被害を受けていない地域とが混在しています。そのため被災地全体を見て、というよりもできるところから復旧へと手をつけていかざるをえないのが現状であるといいます。さらに、其々の地域で復旧・復興に向けて求められていることが異なっており、それぞれの地域ごとに細やかな支援が必要とされています。
このような現状を見るにつけ、機敏さや柔軟さを魅力とするボランティアだからこそ果たしうる役割は膨大であり、ボランティアの長期的・継続的な支援が必要とされることを実感しました。
⑤大船渡市
山田町の視察を終え私たちは沿岸道路を南下し、車は大船渡市へと到着しました。大船渡市も津波によって、市内の主要施設がほぼ津波の被害を受けるという甚大な被害を受けていました。かろうじて津波の被害を免れたローソンはボランティアで賑わっており、「今、日本で最も活気のあるコンビニかもしれない」と菊池さんは冗談めかして語っていました。
大船渡では、7月16日に神奈川県鎌倉市の大船で行われる岩手県復興支援イベント「大船と大船渡祭」にご協力いただく、大船渡市観光物産協会の新沼信男事務局長にご挨拶をさせていただきました。
大船渡市の中心街にあった大船渡市観光物産協会の施設も津波によって全て流されてしまったため、現在は津波の被害を免れた建物の2階を間借りしている状況だといいます。震災の日は、迫りくる津波を前に最低限仕事のために必要なパソコンデータを運びだすのに精一杯で、これまでの長い歴史が記されていた歴代資料を運び出すことをできなかったことが、今でも大変心残りだと残念がっておられました。
大船渡市の観光産業も大きな被害を受けたということですが、いくつかの食品加工工場はすでに営業を始めており、そうした製品を贈ることによってイベントが盛りあがり、東北へと興味・関心を持つきっかけとなってくれれば、というお話をいただきました。「大船」と「大船渡」というダジャレから始まった「大船と大船渡祭」ですが、どのようなイベントとなるのかとても楽しみでなりません。(イベントの様子はこちらをご覧ください)
⑥三陸高田市
その後、車はさらに南下し三陸高田市へと向かいました。今回の視察の目的の一つであった高井和尚のご友人である慈恩寺というお寺の和尚様にお会いするためです。
慈恩寺は高台にあることもあり、震災直後から多くの町の人々が避難してきたそうです。しかしまたたく間に津波は押し寄せ、山門には流れてきた家屋が立ちふさがったといいます。そしてお堂まであと10センチという高さまで水が押し寄せ浸水を覚悟したそうですが、なんとか床上浸水は免れました。
しかし、震災後3日間は通信手段も交通手段も孤立し、外部とまったく連絡を取ることができなくなったといいます。避難していた100名を超える住民のみなさんと不安な眠れぬ日々を過ごしておられましたが、震災から4日が経過し、ようやく空から自衛隊によって発見され支援物資を届けてもらったとのことです。
その後、人々が自分たちの生活手段を確保するまで避難所として機能しており、私たちが慈恩寺を訪れたちょうどその際に、留まっていた最後の数人がお寺を後にする瞬間に立ち会うことができました。
和尚様は、昔からの知己である高井先生をはじめとする私たちの訪問を歓迎してくださり、プリントアウトされた震災直後の写真を交えて、今日までの慈恩寺での生活の様子をお話しいただきました。避難していたみなさんのご家族・親戚にも亡くなったかたが多数おられ、中には未だに親御さんが見つかっていないお子さんもいると言います。
現在まで、東日本大震災によって亡くなった方々は15,000人を超え、行方不明となっている方々も4,000人以上を数えています。3カ月が経過し、日々報道され続けてきた死者・行方不明者合わせておよそ20,000人というあまりに大きな数字に慣れてしまっていた私にとって慈恩寺の和尚様とお寺の方々との出会いは、それぞれの方々にそれぞれの生活があり、それぞれの家族があったであろうこと。そして、身近な人を亡くした遺された人々にとっては「まだ3カ月しか経っていないのだ」ということを思い出させてくださいました。
⑦北上から東京へ
慈恩寺を後にして三陸高田を出発した私たちは、帰りの新幹線の時間を気にしながら北上へと帰路につきました。新幹線の時間までまだ少し時間があったので、北上の枕流亭というお店で夕食をいただきました。枕流亭では菊池さんが中心となって開発された北上自慢のB級グルメである北上コロッケをはじめとする北上自慢のお料理の数々をいただきました。菊池さん、本日は本当にどうもありがとうございました。そして、北上駅から東京行の新幹線に乗り込んだのでした。
被災地域の範囲が広い今回の震災では、まだ復旧に向けての足がかりをつかめていない地域も多く残されており、まだまだ一人ひとりのボランティアの力が求められています。そして、逆に全国には自分の力を活かし東北の復興に役立ちたいとは思っていても、「どのようなことができるのか」「本当に自分が被災地に行って役に立つことができるのか」「ボランティアをするためには誰に話を聞いてみればいいのか」などの情報をもっていないがために、ボランティアを行うことに対して、二の足を踏んでいる人も少なくないのではないでしょうか。
これまで菊池さんのもとには、約400名のメンバーがボランティアとして登録し、のべ1,200人がボランティアとして参加してきました。このように、“被災地の願い”とボランティアの“個人の想い”をつなぎ、実際に活動をコーディネートしていく菊池さんのような存在が、今後の東北への中長期的なボランティアの参加を継続していくためにとても大事になってくると思います。また、菊池さんが行ってきたようなコーディネート機能を仕組化していくためにも、現在仲間内グループで行っている活動をNPOのような形で明確に組織化していくことも視野に入れていきたいとのことです。
そして菊地さんが何より強調されていたのは、一番大変な時期にボランティアとしてきてくれた人々とのつながりを、瓦礫がなくなったからといって終わりにしてはいけないのではないかということです。今回の震災を機に生まれたこのつながりを今後も紡ぎ続けていくことが、東北の復旧・復興だけでなく、自分たちの町の将来を考えた未来に向けて一番大切だと思っている、と語っていらっしゃった姿がとても印象深く心に残っています。
震災から3カ月。今、私たちができること
菊池さんのような、自らの仕事よりも被災地の復興支援活動を優先する被災地への関わり方を、全ての人がすることはできないでしょう。しかし、私たちが被災地に対してできることは決して少なくないと言えます。
時間と体力が許すのであれば、現地に赴き、瓦礫撤去のような活動を実際に行っていくことは被災地にとって求められていることであるといえます。被災地に行くことのできない方は、お金を寄附するという形で自らの想いを託すこともできるでしょう。
しかし菊池さんによれば、東北に来て観光名所を周ったり、旅館に泊まったり、地元のお店で食事をしたりする観光旅行をしてもらうのが、実はとてもありがたいと仰っています。そして少しでも時間に余裕があれば、実際に被災地へと足を伸ばし、1日でも現地でボランティアを体験してもらえたらベストだということです。
現在はまだ被災地のあちらこちらにたくさんの瓦礫が転がり、多くの被災地にとって支援が必要なことは明らかです。しかし、今後瓦礫撤去が進み、表向きには支援の必要性が見えなくなってからも新たな町づくりのグランドラインを策定し、実際に生活を営んでいくための産業復興支援や就労支援、さらに町の未来を築いていく子どもたちに対する教育支援等という、直接成果が見えにくい地道な支援活動がなされていくことが、東北の本当の復興のためには必要となってくるでしょう。
そうした意味で、短期的な支援だけではない継続した中・長期的な被災地への復興支援が不可欠であると言えるのですが、瓦礫撤去というはじめの段階で無理をしすぎると、感情によって駆りたてられた初期衝動の情熱を燃やし続けることができず、長期的な支援が必要であるにも関わらず、目に見える形の短期的な支援活動に終わりやすいのではないでしょうか。
上でも繰り返し述べさせていただいたように、今回の震災は被災地域がとても幅広いのが特徴です。その中で求められていくであろう支援のあり方とは、できることを出来る範囲で中・長期的かつ継続的に、そして何よりも被災地と心をより合わせながら、多くの人々が自分のできる範囲で少しずつ行っていくことであると思います。
そこで菊池さんが危惧していたのが、“東日本大震災”という出来事が、被災地以外の人々にとってすでに風化し始めているのではないかということです。
3月11日(火)、東日本大震災は、東京でも震度にして5強という強い揺れを発生させました。電車をはじめとする公共交通機関は全面的にストップし、東京都内の勤務先から郊外の自宅へと帰ることができなくなった多くの帰宅難民を生みだしました。地震直後から携帯電話は極端に通じにくくなり、幅広い地域で停電が起きました。そして電気復旧後、テレビから映し出される映像は、家が燃え町が津波に飲み込まれていくという、まるで映画の世界のようなものであり、私はテレビの前でただただ愕然とすることしかできませんでした。そして、福島第一原子力発電所が水素爆発を起こし、日本における全ての原発の運転が停止した影響もあり、関東地方では計画停電も行われました。停電の時間を逆算し、洗濯をしたり料理をしたりする。そんな非日常の生活の日々から、もう既に3カ月が経過したのです。
人はあらゆることを忘れていくものだといいます。少なくとも東京において(あるいは被災地以外の人々にとって)は、表向き日常の生活が戻ってきていると言えます。計画停電は4月以降行われることはなく、震災の影響を日々の生活の中で感じさせられるのは節電啓発ポスターなど、生活の快適さを損なわせる「不便さ」を感じる際に限るのではないでしょうか。被災地のこの世のものとは思えない非日常の日々を映し出していたテレビは、気がつけば震災以前の、繰り返される政治ショー報道とバラエティ番組で溢れています。あれだけ多かった被災地の情報は、一瞬の出来事に過ぎない「復興」に向けた明るい情報か、被災地以外の地域に住む私たちの日常生活にとって「不便さ」を強要するニュースに限られています。得てして、あまり変り映えしない、かつて人々が住んでいた家、あるいは人々が乗っていた車だった膨大な量の瓦礫を一つひとつよりわけていくような地道な活動を続けている人々の様子はメディアに乗りにくく、「震災以後初めて下水道が通った」「道が開通した」というようなニュースが多く発信されていくことは、劇的な変化、インパクトを求め続けるメディアにとって、仕方のないことかもしれません。
一方、メディアとは、大衆が求めるものをニュースに仕立て上げていく存在であるとすれば、そうした劇的な変化を伝えるニュースを求めているのは、むしろ私たち自身であるということもできるかもしれません。やや意地悪な言い方をすれば、まるで社会全体が偽りの「日常」を演じているように感じることもあります。むしろ、被災地以外に住む私たち自身がメディアと結託しながら、被災地の将来の見えない大変な現状から目を背け、震災直後の生々しい感覚に瘡蓋をかぶせるために、無理に「日常」を演じているのではないでしょうか。
その結果として、震災直後に充満していた生々しさを含んだ感覚はすでに消え去り、首都圏では各人による自らの生活の営みを繰り返す日常の日々に戻りつつあるといえます。しかも震災直後と比較して、被災地の現在を伝えるニュースが激減してしまっているため、震災からおよそ100日が経過した現在のほうが、被災地の現実を知ることのできる機会は限られているようにも思われます。東日本大震災は過ぎ去った過去のひとつの出来事として、人々の興味の関心の中心から一定の距離が置かれ、被災地の心に寄り添う意識を薄れつつさせているのが現状ではないでしょうか。
はたして、一体どれだけの人々が被災地の現状を、震災直後のように、生々しく、「自分のこととして」とらえ続けられているのでしょうか。
菊池さんは、震災に対する人々の記憶の風化が始まるまでの時間が、「阪神大震災では1年、新潟中越沖地震では半年といったところだったのが、今回の東日本大震災では既に3カ月で風化が始まっている感覚だ」と仰っていました。もちろん被災地以外の人々にとっても、東日本大震災の記憶は一生忘れることはないでしょう。しかし、被災地以外の人々が持つ「もう3カ月が経過した」という感覚と、慈恩寺で和尚さんに思い出させていただいた、大切な人を亡くした遺族にとっての「まだ3カ月しか経っていない」という、東日本大震災に対する“時間のとらえ方のズレ”を、今回の現地視察で最も強く感じました。
被災地では、多くのボランティアの活躍にも関わらず、まだ復旧に至っていない地域が多いのが現状です。しかしそうした被災地の現在の声が、震災に対する“時間のとらえ方のズレ”によって、被災地以外に住む人々の胸に届きにくくなっている現状があるのではないかと菊池さんは危惧していると言えるでしょう。
被災地から離れた地域に住む私たちにとっても震災を風化させずに「自分のこととして」とらえ続けていくためには、被災地の現状を知ることが何より大切でしょう。そしてそのためには、ボランティアであれ観光であれ、直接被災地へと足を運ぶことを、今だからこそお勧めさせていただきます。そして、被災地の現状を知り、その生の声を地元のご家族・ご友人へと発信してほしいと菊池さんは仰っています。
東北への中・長期的かつ継続的な支援を行っていくにあたって何よりも肝要なのは、「自分のこととして」東北の痛みを一人ひとりの自分の痛みとして分かち合いつつ、被災地の“願い”とボランティアの“想い”をより合わせながら復興への道のりを共に歩んでいくことであると思います。
今回は視察のみの時間しか取ることができず、実際に瓦礫撤去等の作業につくことはできませんでした。また近いうちに岩手を訪れ、実際に瓦礫撤去などボランティアをさせていただきに戻って来たいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
最後に…
最後に、今回の報告が大変遅くなってしまいましたことを謝罪いたします。ご迷惑をおかけしてしまいましたみなさま、大変申し訳ございませんでした。
テレビで繰り返し見ていたはずの被災地にポーンと投げ込まれたとき、私は大変なショックを受けました。そして、私が岩手県の各沿岸部で感じたこと、菊池さんや多くのみなさんから伺ったお話を、どのような視点からどのようにまとめ、どのようにご報告するのがよいかを思い悩んでいるうちに、本報告を記述することすらできなくなってしまっていました。そして、思った以上の時間が経過してしまっていました。
実際のところ、上記の報告を書きあげた現在も、上記の報告で私が感じさせていただいた全ての感情や想いをお伝えすることができているとは、決して思えておりません。しかもこれだけの長文となってしまっていることも、私自身の中で今回の大震災をどのようにとらえるかという課題(現在、本報告のような記述を行うべきかどうかという課題も含めて)がいまだ消化しきれていないことの証左と言えるでしょう。
しかし、私自身がどのように震災をとらえるかという問題と、実際に被災地に求められている支援活動を行うことに関しては全く話が異なります。自分自身ができることをさせていただくことによって、助けを必要とされている方々の支援をしていくことは大切なことであると考えています。
そして、そうした日々の復興支援活動を現場で重ねさせていただきながら、私自身が震災をどのような視点から、どのようにとらえていくか。つまり、東日本大震災に対して私自身がどのように向き合うべきなのかという課題に対して、実際に震災復興支援を行わせていただきながら、引き続き考え続けていきたいと思っています。
(早稲田大学大学院生 小木曽駿)